
チャイコフスキー(1840〜1893)の番号付き交響曲は6曲残されている。《悲愴》は
いうまでもなくその最後の作品で、1889年に計画されたが、1891年、アメリカ演奏旅行の帰途に完成された最初のスケッチは
破棄されてしまった。というのは、チャイコフスキー自身が、“創作の最後を飾るような、雄大な交響曲”を目指したからである。既に
チャイコフスキーは《第4交響曲》と《第5交響曲》でロシア国内はもとより西ヨーロッパでも高く評価され、ロシアの代表的な
作曲家としての名声を獲得していた。そのため、彼はそれらをしのぐ傑作でなければ、という意欲を持っていたのである。
1892年12月、チャイコフスキーはパリへの旅の途中で2度目の《第6交響曲》の構成を練りはじめた。よく93年
の2月に甥のダヴィドフに宛てた手紙には、「第1楽章は4日もかからずに完成し、ほかの楽章も全体が頭の中では仕上がっている」
と記した。さらに“この交響曲には標題性があるが、その内容は謎のままでおいておきたい。それは完全に主観的な
プログラム(叙述的内容)でもある”とも述べた。また同じ頃、弟のアナトーリに宛てた手紙には「自分はいま新しい曲の作曲に
没頭している。これは私の最上の作品になるにちがいない」と書いた。それが《悲愴》のことであるのは、いうまでもない。
こうして《悲愴》は1893年8月末か9月に完成されたが、チャイコフスキーはそのできばえに自信をもち、「自分の一生のうちで
一番の傑作だ」と人に語った。
初演は同じ年の10月28日、チャイコフスキー指揮によってベテルブルクで行われた。このときはまだ《悲愴》という
標題はつけられていなかったが、初演後チャイコフスキーは弟のモデストに表題を付けることを相談し、モデストの提案で《悲愴》
と名付けられた。楽譜は「悲愴交響曲」と記されて出版社に送られたのである。ところが、作者のチャイコフスキーは
初演後1週間もたたないうちに生水をのんでコレラにかかり、11月6日に急逝してしまった。コレラ流行の最中に、
人が止めるのもきかずに生水を飲んだこと、この曲の非常にペシミスティックな内容など、いろいろな理由でチャイコフスキーは
自殺したのではないかという説が唱えられた。
約10年前に明らかにされた事実では、チャイコフスキーを当時ある公爵の甥と同性愛の関係を持ち、そのことで無理やり
自殺させられるはめに陥ったという。いずれにしても、《第6交響曲》のペシミスティックな内容は変わらない。
それはスラブ人の魂の赤裸々な内面告白であり、さらには人間全般に共通する苦悩や不安の表明である。あるいは当時の帝政ロシアの
専制的な征爾によって、インテリゲンチャといわれた文化人たちが、重苦しい日々を過ごしていたという空気を感じさせる。
つまり、この交響曲はきわめて主観的であるにもかかわらず、実は普遍的な内容をもっているのである。こうしてチャイコフスキーは
ドイツ音楽が育てた“交響曲”の普遍性を導入し、ロシアにおける一つの頂点を築いたのである。
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